ちょうど2か月前に開設したfacebookとオラリアfacebookページ。陶器のオブジェとポルトガル作品を紹介するために、日々情報発信しているのですが、そこで目にしたfacebook友達からの情報。永野徹子さんの「わき出た!展 -永野徹子と障がいのあるなかまたち-」が目に留まりました。永野さんは、切り絵や陶板などを作られる造形作家さんで、障害のある子供たちの創作活動を応援指導している方です。作品に興味があり新宿を訪問しました。
作りたい気持ちが「ぎゅっ」という指跡に、軌跡となって現れる。
永野さんの説明を聞いていたら(ありきたりの表現なのですが)感動しました。ぐっときました。心の底から「したい」ことがあるって、純粋にすごい!ゆうちゃんにとって、粘土の硬さ(柔らかさ)を感じた時に、その形を変えたい、という「したい」が心を突き動かしたんだろうな。「ぎゅっ」している時は、きっと充実しているのだろうな。気がつくと、今の自分に置き換えて考えてみていました。
「ここで切って」美学は自分の中にある物差し。
名前が一緒なので、少し感情移入してしまいました。あつし君は、枝を拾っては、ここ切って!と差し出すのだそう。本人が思っている場所と切る場所が違うと、気に入らなければ捨てるか、悲しそうに声をだすか、なのだって。自分にもあるある、そういう感情。DMや広告の文字のカタチや大きさ、配置がシックリ来ない時の気持ち。
ある時、永野さんが、押しつぶした粘土に、かずき君の友達の名前をつけて目を書き口を書くのを教えたら、かずき君は楽しくてどんどん友達を土の顔にしていくのだそう(説明していただいたのと間違っていたら修正します)。
陶器オブジェの作家さん達に、「どうしてその作品を作ろうと思ったの?」と聞くことがよくある。その時の作家さんの答えは「作りたかったから」一番多い答えがコレ。土と触れると何か作りたくなる。おそらくそれは大事なものなのだろうな。かずき君の作品 おどもだち を見て思う。
なおや君のノートには同じ文字がたくさん並んでいたり、意味のある文章がつらつらと同じ大きさの綺麗な文字で書かれていたり、繰り返し作品がとても多い。自分にも同じようなことがあった。小学生の高学年頃からだろうか?同じ漢字を、とにかく書いて、気づくと1ページ全部になったりして。影文字に凝りだした時は全部影文字に。枠付き文字に凝っていた時は一筆でかけるまでずっと同じ文字を書き続けた。なおや君の書く意味とは、きっと違うのだろうけど、書きたい衝動に心が動いたのは本当だった。学生の時、講義の間ずっと同性の友人の名前をノートに書いていたら、その友人が、人が見たら誤解するぞ、と苦笑していたことを思い出した。
永野徹子さんの作品。ひとつひとつの絵がメルヘン。きっと永野さんも心に描きたいものが浮かんでくるのだろう!そういう説明をしていただいたと思う。
なおや君のノート、ゆうちゃんのぎゅっ、かずき君のおともだち、あつし君の枝を見ていたら、こころがいっぱいになって永野さんの説明を消化しきれなかったようです。
今、いろんな事をトライしていて、近道がないってことはわかっていても、遠い道の向こうに、ちゃんとゴールがあればいいけれど、ゴールのない道だったらくたびれたらしゃがむか(倒れるのではない)という気持ちになりました。永野さんと子供たちにありがとう!
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